桐野夏生『OUT』を読む。

読み終わった後、「とんでもない小説を読んでしまった」という気持ちでいっぱいになった。
読んでそろそろ三週間が経とうとするが、いまだに暗澹たる小説の世界から抜け出せそうにない。

深夜の弁当工場に非正規として勤める女4人が、仲間が行った殺人の隠蔽のために死体のバラバラに協力する。しかし、そんな連帯感もまやかしであり、それぞれ崩壊の道へと辿っていく。

1997年という90年代の半ばに桐野夏生が解き放った犯罪小説の金字塔である。ドラマにもなり、映画にもなり、海を超えて日本人として初めてエドガー賞(アメリカの優れた長編推理小説に与えられる賞)の候補となるなど日本という枠組みを超えて全世界でムーブメントなった。

この小説は単なる犯罪小説ではない。その意味は単に犯罪者の心理やグロテスクな描写、どう犯罪から逃れるかといったサスペンス要素など娯楽的、エンタメ小説の枠に留まらないということである。何度か本書を読むことで様々な角度から思いをめぐらすことができるだろう。

例えば、「格差」。現在の日本では様々な格差が浸透し、例えば、「男性」と「女性」、「正規」と「非正規」、「日本人」と「外国人」といった二項対立が広がっている。登場人物はいずれも経済的に困窮している(主人公格の雅子は例外として。彼女は物質的ではない、非物質的な「何か」が満たされていない)。深夜の弁当工場の労働者は非正規雇用であり、出版当時はさほど焦点が当てられなかった非正規雇用問題がクローズアップされるようになるのは2000年代以降の新自由主義政策下であるが、その前夜譚として読むのも面白い。

また、他の桐野作品にも顕著に象徴されるのだが、「支配下におかれる女性」という観点からこの作品を捉え直すと興味深い。雅子を含め、女性たちは(たとえそれが暴力的でなかったとしても)男性の権力下に終始さらされている。特に雅子と対をなす重要人物である佐竹は、過去暴力に伴う性行により佐竹自身でしか感じることのできない快楽を得た結果、自分の追い求める女性(雅子)を内に取り込むことで破滅することすら考えている。佐竹と雅子は物語の最終局面で決闘する展開となるのだが、その結末には一種の純文学的な印象すら覚えた。



一読した際、最も興味深いと思えたのが、死体解体の描写である。雅子らは実に小気味よくサクサク、サクサクと死体をバラバラにしていくのである。まるでそれが人間という認識ではなく、使えなくなった「モノ」のように。彼女たちが抱える閉塞感を打ち破っていくかの如く、実に思い切りよく解体していく。そこに何らかの暗喩がこめられているのは確実である。表題の「OUT」とは色々な意味がとれるが、雅子たちにとっては、現状の閉塞感からの「OUT(出口)」ではないだろうか。どうにもならないことに苛まれている中、藁をもすがる気持ちで死体解体に手を貸す主婦四人。努力ではどうにもならない社会の闇を描いてもいるように思える。