『スパロボIMPACT』を22年ぶりにクリアできたから嬉しい。

先日、22年ぶりに『スーパーロボット対戦IMPACT』を完全クリアすることができた。

いや、長かった。


スパロボIMPACT(以下、単に「インパクト」)はWikiを見ると、2002年発売のゲームと記載されているので、かれこれ22年ぶりのリベンジです。自分の人生の中でこれほど長いブランクをかけて成し遂げたことはなかった、と思います。なにしろ赤ん坊が成人し、会社勤めをしだすくらいの年月なのだから。

クリアするのにこんなに長い時間かかった理由は膨大に長いストーリーです。。驚くことに、この「インパクト」は通常クリアするだけでも99個(隠しステージを入れると101個)ものステージをクリアする必要がありまして、1ステージが30分ぐらいで終わるのであれば大したことないのですが、一つ一つのボリュームも凄まじく、後半のステージではざらに2、3時間かかったものもあります。単純にインパクトのために画面に向かった総時間はざっと200〜300時間ほどになると思います。

プレイしはじめた当時は中学生というオツムがまだ成熟していなかったことと、初スパロボということも育成方針をミスった結果、どうあがいても続きのステージをクリアできない状況になってしまい、またイチからやり直したとしても膨大な話数をこなす気力もなく、途中でぶん投げました。ただ、この「インパクト」にはなんともいえない魅力があり、自分の人生の中で、いつかまたプレイしてみたいなぁ、とずっと思っていました。

オッサンになった今、今回のプレイでは紙の攻略本を脇に抱えながら、途中で詰まないようにどの機体を育成すればよいのか、じっくり見ながら昨年の3月ぐらいから断続的にプレイをし、ステージを一つずつこなしてきた結果、よーやく、完全クリアできました。もちろん途中で遠ざかる時期もありましたが、クリアするまでにざっと約一年ほどかかるゲームなのです。

とにかくこのゲーム、クリアするには体力と根気が求められます。攻略本なしにクリアできた人いるんですかね?と疑うレベル。
そして、再プレイはおそらく無いでしょう。あるとすれば、仕事引退して余生を過ごすとなったとき、また、数十年後かもしれません。



ここまで時間を費やしたゲームなので、特に印象に残った機体を3つほど紹介します。

ダンガイオー
アニメはもちろん知らなかったので、お金払って視聴しました(笑)が、機体デザインがとにかくカッコいい。パイロットがサイコキネシスという厨二設定もいい。四人乗り機体のため、精神もふんだんに使えるし、なにより最強武器の「サイキック斬」がクッソ強く、「奇跡」かけての「サイキック斬」+アルトアイゼン・リーゼの援護攻撃で大抵のボスキャラは粉砕できる。

・グレンダイザー
マジンガーなどは知ってましたが、グレンダイザーはその影に埋もれている印象です。しかし、この「インパクト」では、最初から最後まで(具体的に言うと2部から最終話まで)グレンダイザーをどう育成するかによってステージ攻略の難易度が変わるほど重要な機体です。パイロットも統率持ちで最終的には攻撃力3倍の「魂」を覚えるボスキラーとなります。敵陣に突っ込んでの雑魚狩り、アルトアイゼンと組んでの同時援護攻撃でボス機体粉砕など、オールマイティ機体。とにかくお世話になった。

アルトアイゼン・リーゼ
1部の主人公で、出場機会は1部と3部です。後半からアルトアイゼン・リーゼへとパワーアップするのですが、自軍最強の援護攻撃ユニットであり、こいつを中心に陣形を組めばどれだけ硬いボス級機体もワンターンキルできます。もちろん直接攻撃に回って敵陣に突っ込むアタッカーとしても使えます。

デスメタルとブラックメタルの違い

デスメタルブラックメタルという音楽ジャンルを聞いたことはありますか?

なんか怖そうな雰囲気は共通しますが、この二つはどちらもヘヴィメタルサブジャンルでありますが、その思想や性質は全く異なるものです。

僕はデスメタルはよく聴きますが、ブラックメタルはあまり聴きません。
好き嫌いとかそういう単純な理由ではないのですが、音楽的にブラックメタルが同じ展開をひたすらループするのに対し、デスメタルはイントロ、サビなどかろうじて音楽的展開が残されているので、デスメタルのほうが聴きやすいからでしょうか。また、ブラックメタルは曲の長さがそこそこあるにもかかわらず、展開が終始フレーズの繰り返しのため、やはりアルバム全体を聴くことに躊躇してしまいます。

んで、この二つのヘヴィメタルサブジャンルは対立が起こります。wiki先生によると、ブラックメタルデスメタルに対抗するものとして生まれた経緯があるかららしいです。
確かに、このバンドはデスメタルブラックメタルかを巡って論争が起こることは決して少なくありません(例えば、Cradle of Filthデスメタルブラックメタルかについてなど)。なので、一旦整理してみようと思います。


デスメタル
・ルーツはスラッシュメタル
・死、殺人などについて扱う
・低音重視のデス声
・ファッションは黒基調ですが、特に縛りはない
・曲の長さは普通の音楽とあまり変わらないが、2分ぐらいで終わるものもある。
・日本の激しめなロック(V系)と親和性があり、意外に聴ける曲も多い
・アルバムジャケットはグロテスクで、バンドTシャツは公衆では着づらい

ブラックメタル
・ルーツはスラッシュメタル
・死、殺人も扱うものの、キリスト教批判、悪魔主義、サタン主義
・高音の金切りシャウト
コープスペイント(真っ白な化粧をして、目の周りを黒く塗る)、衣装は全身黒服でバンド全体で統一されていることが多い
・長尺
トレモロリフ、シンプルなブラストビート、曲展開はフレーズの反復によるもの。
・アルバムジャケットはモノクロ、グロテスクなものは少なく、宗教的な雰囲気がある。バンドTシャツは知らない人から見るとどっかのブランドっぽくみえなくもないので公衆でも着ようと思えば着れる。


こんなところでしょうか。どちらもスラッシュメタルから派生するわけですが、これは納得できます。ただ、思想やスタイルなど全く違う点もあります。もちろんデスメタルにも長尺でフレーズをひたすら繰り返す、金切りシャウトある、みたいな曲もあるので、全て上に挙げた特徴で分類できるわけではないのですが、一定の指標になるかとは思います。

世間的には『デトロイトメタルシティ』の影響が大きいみたいで、みんなあれを「デスメタル!」と言いがちなのですが、あれは完全にファッションはブラックメタル、曲はデスメタル(でもない?)です。デスメタルのバンドでコープスペイントなどをすることはほぼありません。

日本の激しめな曲が好きなのであれば、色々と辿っていくとデスメタルバンドに行き着くことが多いので、音楽的に触れやすいのはやはりデスメタルだと思います。また、V系とかで白塗りペイントするバンドはありますが、そのルーツはブラックメタルではないでしょう。音楽的変遷を辿ると、あれはX、さらにいうと、LAメタルとかKISSの影響だと思います。

アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』を再読した。

以前読んだのは、いつ頃だっただろうか。

 

少なくとも社会人になってからは読んだ記憶がないので、学生以来か。

 

やっぱりミステリとなると古典がいいよな、と改めて感じさせてくれるのが、クリスティ。クイーン、カーは少し難解だから、万人が親しめるのはやっぱりクリスティだよな、と。その分、前二人のほうが本格ミステリに備わっている「緻密性」は圧倒的に高い。ちなみに、wikiで調べたら、世界三大推理小説家はこの三人らしいです。日本では誰になるんだろうか?三大名探偵が明智金田一、神津だから、やはり江戸川乱歩横溝正史高木彬光になるのだろうか。ネットでさらに調べると色々と候補はあるみたいです。

 

ところで、僕はミステリマニアまでいくほど読書量があるほどでもないし、評論家でもないから作品を評価できる能はないのですが、やはり、古典ミステリは構成がシンプルであるからが故に本来のミステリにどっぷり浸かれるんだと思う。

 

 

冒頭に謎が示される→事件が起きる→さらなる殺人事件発生→関係者の洗い出し、ワトソン役がさりげなくヒントをみつける(大抵、本人は気づいていない)→探偵役はトリックを見破り、関係者を一同に集め、犯人を名指して事件解決

 

 

この構造がたまらんのよね。自分が「とてつもない」と感じたミステリが必ずしもこのスタイルをとっているかというとそういうわけでもないんですが、ミステリの形はこれが基本。基本を押さえた上で例外をつぶしていくべし。クリスティの『ABC』は、このミステリの王道がまさに体現されている。頭に入ってきやすいんですよね。

 

なぜかっていうと、あまりごちゃごちゃした説明やら背景知識が続いたりすると、書き手が示す事件を解き明かすための「謎」を、読み手が掴みづらくなるんです。もちろん、これをいかにぼかすか、注意をそらすかが書き手の腕の見せ所なのですが、あまりにも範囲が広がりすぎると、今度は読み手が混乱してしまい、ページを進めることが目的となってしまって、ミステリの醍醐味が薄くなってしまう(この点、純文学なんかはいくら広げてもまだましだと思うのですが)。どんなに長くとも400ページぐらいが自分にはちょうどいいんです。まあ難しいところです。膨らませたほうが物語が多層的になって、読後の余韻も濃厚なものに化けることもあるんですけどね。

 

あと、トリックについても触れておきたいと思います※ネタバレはしません。

大量のミステリの経験を経た上で、『ABC』が未読の場合、『ABC』を読んでみると、「これはミスリードなんじゃないの〜」や「このトリックって他の小説でも似たようなのでてきてなかったか?」という感想は誰でも感じると思う。だが、その感想が出ることがこの作品の凄まじさを示している。『ABC』が書かれたのは1930年代。今だにこの作品がオマージュされることもあるから、ミステリ好きには必須の作品だと思うんです。

 

僕の読書の作法

僕はいささか内向的な性格であるために、人付きあいが決してよいとはいえません。ここ数年、飲み会でワイワイガヤガヤして仕事の愚痴や上司の悪口などを軽口を叩きながら仲間と談笑することはなかったし、仕事のない日では、人と乗り合わせて趣味を楽しんだり、何か共同で楽しんだりすることも記憶に数えるぐらいです。

 

最近もっぱら幸せを感じる瞬間といえば、仕事終わりにコーヒーを飲みながらささやかな趣味である読書(特に推理小説)をすることぐらいであります。

 

最近では、乱歩の傑作選をブックオフで安く買って、帰り道にあるマクドナルドに寄って、2時間ばかしで読み切りました。家で読むのももちろん楽しいのですが、だいたい店に寄るのは夜遅くになってからなので、人がまばらな雰囲気と相まって、すこぶる読書が捗りやすいのです。また、いつもとは違った環境で読書をすることが、不思議と頭に残りやすく、本に書き連なれた文字がどんどん染み渡るような感覚で頭に入っていきます。

 

読書をするときは大体音楽を聴いています。もちろん主が読書なので、聴く音楽があまり邪魔にならないよう、ジャズやクラシックなど歌がないものにしています(たまに音楽が勝ることもあり、この良い曲を演奏しているアーティストの他のCDが気になってネットで検索してしまうことも多々あるのですが・・・)。

 

読書をするときは、極力スマホには触らないようにしています。これは重要なことですが、初めて読む本の「読書体験」は二度と味わえない崇高なものです。ほとんどの人にとって同じ本を読み返すことは、よほどの傑作でない限り稀有なものだと思います。また、読み返すとしても何ヶ月後、何年、何十年後の機会が大半です。登場人物の心理描写や、文字を通じてあらわになる物語の感触、風景、ミステリーであれば謎を解くために重要な表現など、一度逃してしまうと再び味わうことは難しい貴重な体験を、読書の途中のスマホいじりが一瞬で断ち切ってしまうのです。スマホを通じて得られる情報は別に読書中でなくとも容易に得ることができます。対して読書体験は上記のとおり、大変貴重なものであり、できればスマホの電源などは切ってしまい、読書の世界に没入することをオススメします。

 

読み終わった本は、できればなんらかの方法でその内容や感想をできるだけ簡潔な方法でまとめておくことが好ましいと思います。本を読んで得られた体験は大変貴重ですが、読み終わってすぐに別の読書体験に移るのでは、なんだか使い捨てのような感じがして勿体ないと思います。読み終わった本のあらすじと、どういった点に興味を覚えたか記録をすることで、振り返った時にその本の内容、読んだときに感じた印象がいつでもどこでも引き出せるようになり、読書の世界をさらに引き伸ばすことができるでしょう。記録をするときに心がけることは、読み終わったらなるべく早めにまとめておくということです。人の記憶力は日に日に減退するものであったり、かつ、脳へ入ったり出たりする情報というのは日を追うごとにどんどん変化していきます。本を通じて得た体験ができるだけ形を変えないうちに自分の言葉で文章化してしまいましょう。

 

最後に、少し批判があるかもしれませんが、読む本はなるべく人からの評価が高いものを選んでいます。もちろん、「この本を読んでみたい」という自身の直感に身を任せて選んでも良いと思うのですが、多くの人が評価するものは大概、自分が読んでも良い評価となるはずです(性別、環境など多少の差こそあれ、文学作品のような何かの思想に触れたときの反応は、人の「つくり」においてそう差はないはずだからです)。物質的ではありますが、本を読むとはそれだけ時間を費やす行為です。ましてや本の購入という経済的な犠牲も払っているわけです。なので、読み終わったあと、こうした犠牲を払ったかいがあったと思えれば思えるだけ良い読書体験を成したといえます。より網羅的に、多角的に読書を楽しみたいというのであれば、基本的には巷での評価が高い本から読破していき、おおかたの整理がついた頃合いで自分の興味関心のまま乱読することもいいでしょう。

 

世間から置いてけぼり

ふとしたときに、「世の中の価値観」についていけていないと感じることがある。

ぼくはどちらかというと、多数が思考する世界の中で生きるのは苦手なのかもしれない。

一応働いてはいるが、特に有能でもなく、出世しているわけでもないし、仲の良い同僚、先輩・後輩がいるわけでもない。友達はいないし、結婚もしていないので、交友関係は親族ぐらいしかいない。休日はだいたい11時ころまで寝て、一人で本読みながら過ごしているし、読書も音楽の趣味も10代、20代の頃から変わってない。

 

周りとの価値観の差という観点から過去を振り返ると、例として思い出すことがある。

 

2000年代の後半にAKB48という「会いにいけるアイドル」を謳うグループが発足した。本家はもちろん乃木坂、櫻坂などの坂道系、また、NMB、NGTなど地域性を重点に置いた派生グループを生み出すなど、日本のアイドル史に大きな影響を与えたグループである。今でこそ、国民の認知率は相当高いものと思われるが、ぼくがその名前を知った時(確か2006年、7年ぐらいだったと思う)は、得体のしれないマニアックなアイドルであり、いわゆるオタクが好むアイドル像としての受け止め方しかされていなかったと思う。

 

ぼくは発足時のAKBを知っていた。それはそこそこの主要メンバーに知り合いがいたからである。風の噂で芸能関係の仕事をしていると友人から聞いたぼくは、深夜、家族が寝静まった夜中に家のパソコンでおそるおそる「AKB」と検索し、なんとかして公式ホームページのメンバー欄にたどり着き名前を探したところ、確かにぼくの知った名前がディスプレイに表示されていた。ちなみに翌日は大学入試の模擬試験だったと記憶している。興奮していたぼくは徹夜するはめになり、適当に回答したところ、当然ながら良い結果とはならなかった(これがもとかはわからないが、浪人するハメになる)。

 

その子とは友人関係とかではなかったけれど、自分の知り合いが、ちょっとしたメディアに取り上げられるようなアイドルグループに在籍していることは少しの自慢になった。興奮したぼくは模試の翌日の学校のクラスでAKB48とその中に知り合いがいることを少し自慢げに話したのだが、少ない友人からは(あくまで主観的にはではあるが)ボロっクソに叩かれた記憶がある。そんなグループしらねえよ、ならまだわかるのだが、そういうアイドルグループを話すなんて気持ちわるい、ロリコン、変態、お前模試失敗しただろ、などなど。

 

一年の浪人後、なんとか大学に進学できることとなったのだが、この2年程度の中でAKB48は文字通り「スター」となっていた。だれも知らない地下アイドルから「AKB現象」ともいえるような過熱っぷり。出す握手券はCDという付録付きで、一人で何十、何百と購入するヘビーユーザー層を生み出した。このイケイケドンドンの時流にのり、大学入学直後に知り合った同じクラス内の友人に高校時代の友人に放った言葉と同じコト話したら、

すげえ!、メアド知ってんの?、うらやましい、紹介して欲しい

など、反応が180度変わっていた。

 

ちょっと切なくなった。確かにAKBは規模も大きくなり、人気は出たけど、それそのものが「とても素晴らしいもの」になったが故に彼らの評価に差が生まれたというわけではないだろう。おそらく、ボロっクソ言った高校時代の友人たちもイケイケドンドンの時期に同じことを言われれば、大学の友人と同じリアクションをしただろうと考えてしまったのである。

 

周りの人たちが良いぞーと言っているものを積極的に褒める、便乗することで、世間のレールから外れることなく、精神的にも多数派にのれる。この安心感は麻薬みたいなもんであって、その本質的なところはどうでもいいのかもしれない。ちょっと前まで規制のゆるーいお笑い番組にゲラゲラ笑っていた人が、今では紋切り型の人権論者になっていたりするかもしれない。

 

センター試験時代の英語リスニングに思うこと

以前はセンター試験、さらに遡ると共通一次試験と呼称されていた大学共通テストが1月13日(土)、14日(日)に行われたそうですね。

 

ずいぶん大人になってしまった筆者にとっては、共通テストの時期=そろそろ雪が降る時期か・・・と寒冷のピークのメルクマークぐらいにしか思っていなかった。しかし、そんな自分にもセンター試験を真面目に受験した時代は確かに存在していたのである(筆者はセンター試験世代です)。

 

現在の受験生であれば当然のことかもしれないが、自分が受験したときは英語のリスニングが導入されて間もない時期であったかと思う。今考えると、それまでの英語試験にリスニングがないこと自体、かなり驚愕の事実であるのかもしれない。大学の英語の授業では、外国人教師が務めることももちろんあるし、その授業は大抵英語を軸にして展開される。社会に出てからも英語で会議をしたり、英語を話す人と一緒にビジネスをしたりする機会が年々増している。センター試験で英語リスニングが導入された当時は、予備校などもかなり対策に力を入れ始めていたような記憶がある。あんまりはっきりとした記憶がないのは、私大文系希望であった筆者にとって、センター試験はちょっとした模擬試験感覚で受験した程度であるため、リスニング対策などはろくすっぽしなかったからである。

 

今思えば、あのとき、しっかり英語のリスニングの勉強をやっておけばよかったと思う。能動的に英語を勉強することがない大概の学生にとってリスニングが試験として導入されるということは、半ば強制的にリスニング力を身に着ける機会にもなるし、受験勉強にとどまらない語学力のアップにブーストをかける一つのきっかけとなる可能性があったからだ。

 

私自身は、幸いなことに仕事で英語に触れる機会は全くといってないが、母国語以外に得意な言語を一つでも持っているとそれだけで「生き方」の可能性が大きく広がるということは社会人になればだれしも感じることではないだろうか。ビジネスの世界であれば海外に視野を入れている企業へのとっかかりにもなるし、そこで働きたければ語学力は必須となる。国内以外の就職先を探すとなると、英語ができることは大きな強みとなる。そして何もビジネスに限ったことではなくて、英語が使われる世界(文学、エンタメ、スポーツ、その他の趣味の世界など)へ苦労せず溶け込むことができる。語学力をつけることはそれ自身が人生の充実につながる。

 

詰め込み式授業の成果か否かわからないが、筆者はリーディングにはそこそこ自信がある。確かに受験は乗り切れるかもしれないけど、やっぱり聴ける(リスニング)、話せる(スピーキング)、書ける(ライティング)といったリーディング以外の力を兼ね揃えたほうが総合的な英語力は増すし、なおかつ、英語を楽しむことができる。

 

だらだらと書いてきた上のようなお説教を私自身もこの10数年の間見てきたが、あまり真摯にとらえることなく、それこそだらだらとここまできてしまった。あー英語もっと勉強しておけばよかったなー。

 

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

 

しばらくぶりのブログ更新ですが、2024年はまだ2週間程度しか経っていないにもかかわらず、とんでもない災害や事故、事件で多くの被害があり、恐れ慄いております。なんだか、令和の世の中になってから、世間では伝染病の大流行や第三次世界大戦を匂わせるような戦争の勃発など不吉な出来事ばかり起きているような気がします。

 

一方で、私自身の生活といえば、相も変わらず、朝には仕事へ行って、ストレスのシャワーを浴びながら、今度こそは何事もないようにと電話と窓口をにらめっこしながら8時間程度過ごし、夜帰宅しては、なかなか上達もしない料理に悪戦苦闘しながら一汁二菜程度を拵えてなんとかやっています。

他人から見るとなんでもない日常かもしれませんし、自分でもなんでもない日常だなと感じる毎日ではございますが、このなんでもない日常というのが実は最も尊いものであるということを近々は誠に実感いたします。

 

そして、ちょうど去年の今頃から復活した通信大学への情熱というマイブームは、なんとか一年は継続し、残すところは卒論といくばくかの単位で卒業が可能という段階まで進めることができました。

この卒論の執筆というのが曲者で、担当教授からの決められた指導回数を踏まないと、卒論の提出ができません。この指導はおおよそ半年に一回行われるので、卒論提出までには最低でも一年半年かかる計算となります。残念ながら、私はまだ一度も指導を受けていないため、卒業要件の単位数を8、9割満たしているこの状態でも、卒業までの乗り越える壁はいくつかありますため、まだまだこの大学で遊べる時間がたっぷりと残されております。

上に書いた、なんでもない日常といくらか重なることではありますが、自分の興味・関心に対し、自由に勉強できるということは本当に楽しいことだと思います。もちろん、課題を作成したり、単位取得をするための試験や、教授からのダメ出しなど心が折れるようなこともたくさんありますが、それでも自分の好きな時間に、自由に好きなことを勉強できるというのは、人間が本質的に持つ「何かを学ぶことの喜び」を叶えてくれます。

 

あんまりだらだらと書くと、ただでさえ文章が下手なことが露呈してしまいますので、そんなこんなで、特に「何の変哲もない」がモットーの私ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。